Wayne Madsenが最近の記事で、近年のトルコ・イスラエルの摩擦はトルコがDonmehからイスラム的性格を回復しようとしていることによると論じている。
Donmehはマラノと同じく、「隠れユダヤ人」である。16世紀から17世紀にスペインから追われたスファラディユダヤ人の子孫のトルコ人の一派である。
彼らは、イスラムに改宗したように見せかけているが、サバタイ・ゼビのカバラ悪魔主義を実行し、シオニストのアジェンダを遂行しようとしている。
ロシアでボルシェベキが1905に革命を起こしたように、Donmehも「若いトルコ人」組織をつくり、1908年にこのサルタンを退位させている。
このサルタンはシオニストがパレスチナを譲るために持ちかけた賄賂を拒否したという「犯罪」のために非難された。「ユダヤ人はお金を積み上げるだろうが、自分のものでないものは売ることができない。パレスチナはイスラム全土に属しているのだ」とサルタンは言っている。
その後、サルタンは都合の良い「革命」によって退位させられ、牢獄で死ぬことになった。
トルコは「世俗主義」の名のもとイスラム的性格を剥ぎ取られた。
MadsenによるとDonmehは150万人のトルコ人を代表して、トルコ人の生活に深く食い込んでいる。
ガザの船団の攻撃は、トルコが2003年にこのDonmehの一員である軍隊の上級将校、ジャーナリスト、学者などを数人投獄したことへのイスラエルの報復だ。
ボルシェベキがキリスト教を弾圧し、虐殺を行ったのと同様に、Donmehもキリスト教のアルメニア人の虐殺を行った。これは近代最初の虐殺であり、100万から150万人が殺された。この虐殺は1915年にはじめられた。
取るこの軍隊はアルメニア人を故郷から引き晴らし、数百マイル歩かせた。水や食料を与えず、現在のシリアの地まで歩かせたのだ。虐殺は、年齢、性別おかまいなしに行われた。レイプや性的虐待が絶えなかった。
第一次大戦時のトルコのDonmehの内務大臣Tallaat Pasha (1874-1921)は、トルコのスコティッシュ・ライトのメイソンで、この人がアルメニア人虐殺を推し進めた。
元記事
アルメニアの近代史の話になるとこの虐殺が出てくるのですが、こんな背景があったのでしょうか?
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