群れにくっついて歩いているものは、群れより先に進むことはできないだろう。
一人で歩いているものたちは、誰も行ったことのないところに自分がいることが分かるものだ。
ああ。怖い!
椅子に座って見ているだけでも足がすくみます。
たぶん、角度を変えると、下近くに地面があるのでしょうが・・・・・・
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しかも、エイプリルフールの日に…。
冗談にもならないことですが、もともと政治じたい嘘ばかりのものでしょうか・・・?
そういえば、以前アイクの公式日本語サイトで嘘をつく支配者層を「悪」と表現していたことに対して
「もし『嘘だけ』なら、むしろそのすべてを逆に考えればいいだけだから
それはそれでわかりやすいけど、
でも支配者層というものは『嘘』も『ほんと』もどちらも利用するから『純粋な悪』とはいいきれない」
というようなことをコメントしたら、メールの方に丁重にコメント削除を伝えられました。
あくまでも、支配者層は「自分の思うような敵」であってほしいということなのか・・・。
支配者層は常に「敵」というものをつくって争わせたがるようですが、
それに洗脳される方も常に「敵」というものを意識したがっているような気も。
でもほんとうの敵は純粋な「悪」のような「対極」ではなく、
むしろ自分だけは「善」と思い込んでいる「それぞれの正義」という気もします。
霊界物語からの引用です
この章の題名は「善悪不測」です。
『神は自ら助くるものを助く』
と。しかり。されど蓋は有限的にして、人間たるもの到底絶対的に身魂の永遠的幸福を生み出すことは不可能なり。人は一つの善事をなさむとすれば、必ずやそれに倍するの悪事を不知不識なしつつあるなり。故に人生には絶対的の善も無ければ、また絶対的の悪も無し。善中悪あり、悪中善あり、水中火あり、火中水あり、陰中陽あり、陽中陰あり、陰陽善悪相混じ、美醜明暗相交はりて、宇宙の一切は完成するものなり。故にある一派の宗派の唱ふる如き善悪の真の区別は、人間は愚、神と雖もこれを正確に判別し給ふことは出来ざるべし。
如何とならば神は万物を造り給ふに際し、霊力体の三大元を以てこれを創造し給ふ。霊とは善にして、体とは悪なり。しかして霊体より発生する力は、これ善悪混淆なり。これを宇宙の力といひ、または神力と称し、神の威徳と云ふ。故に善悪不二にして、美醜一如たるは、宇宙の真相なり。
重く濁れるものは地となり、軽く清きものは天となる。しかるに大空のみにては、一切の万物発育するの場所なく、また大地のみにては、正神の空気を吸収すること能はず、天地合体、陰陽相和して、宇宙一切は永遠に保持さるるなり。また善悪は時、所、位によりて善も悪となり、悪もまた善となることあり。実に善悪の標準は複雑にして、容易に人心小智の判知すべき限りにあらず。故に善悪の審判は、宇宙の大元霊たる大神のみ、その権限を有し給ひ、吾人はすべての善悪を審判するの資格は絶対無きものなり。
妄に人を審判は、大神の職権を侵すものにして、僣越の限りと言ふべし。
唯々人は吾が身の悪を改め、善に遷ることのみを考へ、決して他人の審判をなすべき資格の無きものなることを考ふべきなり。
吾を愛するもの必ずしも善人に非ず、吾を苦しむるもの必ずしも悪人ならずとせば、唯々吾人は、善悪愛憎の外に超然として、惟神の道を遵奉するより外無しと知るべし。
難しい言い方で言っているので何を言っているかが難しいところです。
宗教的な解釈では、「何事も神様に任せなければならない」みたいなところでしょうか。
私は、引用させてもらった意味のようなことを言っていると思ってます。
私は、霊界物語の主役は、金毛九尾の憑依した高姫という中高年の女性だと思いますが、まさに、それが、「それぞれの正義」をふりかざしている人です・・・・・・
宇宙の一切までそうなのかはわかりませんが、
でも僕もこの言葉には共感できるものがあります。
>>軽く清きものは天となる。しかるに大空のみにては、一切の万物発育するの場所なく
これ、興味深い言葉ですね。
日本刀のごとく、傷ついて傷ついて磨かれて磨かれて成長してゆく
「完全」なものとちがって、「完璧」なものは
もとより完璧であるがゆえに成長をすることはないというようなことに似てる印象が。
ところで、「九尾(の憑依した女性?)」って霊界物語の主役だったんですか?
てっきり、霊界物語にとっては邪神のような存在かと思ってました。
この感じで、システム(系)の中には「濁り」も当然含まれていて、それが「邪神」になるわけです。邪神もシステムの一部分なのです。
九尾の憑依した中高年の女性ですね。
霊界物語にダントツで出てくる人物(神)です。
霊界物語は読み始めて30年ほどになると思いますが、最近まで、この高姫が主役であるとは考えませんでしたが、最近、そう思うようになりました。
悪役が主役の小説も沢山ありますので、主役と言っていいでしょう。
この人は、確かに「血筋」はいいのですが、自分だけは「善」だと思っている、というか「救世主」であると思っています・・・・・・
恐ろしい存在でナルトに封印されていたのですが、だんだんナルト自身が九尾とともに成長するというか色んな意味で解放しつつあるというか。
そういえば、「NARUTO」って「月」に関してちょっとアイクみたいな表現をしていた記憶があります。
思うんですが、映画やマンガなどのエンターテイメント作品って
人気ある作品は特に世に出す際になにか「これは加えておけ」みたいな条件を与えられてる印象があります。
単純なところでいえば、例えばサブミナルがあったり、支配者層のシンボルのようなものがでてきたり、「神」という言葉がでてきたり、血のつながらない他人とは決してあいまみえないように「親子」の絆に執着させたり(今はまだの親子の絆に縛らせておいて、いずれはその家族さえも崩壊させる展開にもっていく?)、
それこそなにげないシーンでいえばゴミを投げる、自分の一大事なら車や乗り物を盗むなど…。
ただ、作品によってはそういった条件をのみながら
その監督や作者によっては自分なりにメッセージというか考えさせられるシーンも含めてる作品もあるような気もします。
以前太田さんの元スタッフの人達のブログで
例えハリウッドの映画でも中には直感的に好きになれる部分はあるとコメントした時には、
特に「サブミナル」を恐れてかハリウッドの映画は「見ようとも思いません」みたいなことを言われた記憶があったります。そのうえでサブミナルなどの部分ばかりをとりあげて見たこともない作品じたいを批判してたのですが、でも見たこともないものをどうして評価できるのか・・・。
狭依彦さんも、「霊界物語」ひとつとっても何年も何回も読みなおして色んな事を知ってきたんですよね。
陰謀論者も、ほんと人それぞれなんでしょうかね・・・。