殺人にかかわった神父は反省の色もなく、このようなことはルーマニア正教会では普通にあることだと言っている。有罪になれば関わった者たちは20年以上刑務所に入ることになる。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/4107524.stm
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これに対する明白な理由って、ほんとうにあるのでしょうか・・・?
もしあるとするなら、これは「僕の価値観」になってしもうかもしれませんが、
それは 色んな意味で
価値観は「人それぞれ」だからじゃないでしょうか・・・?
基本的に、我々は きっと本来
法律や規則などではしばることのできない
「自我」というものをもっていると思うんです。
これがある限り、人の価値観って
正しい事も正義もみんな「人それぞれ」なのではないでしょうか・・・?
だとすれば、「その人の“正義”」のために
「誰か」を「裁く」とか、
それこそ「殺す」(死刑なども含めて)なんて、本来どれほど恐ろしいことか・・・。
例えそれが 法律や規則とも同じだったとしても、「裁いたり」「殺したり(処刑?)」する責任は、
「裁いた」(裁かせた?)その人自身に、「殺した」(殺させた?)その人自身に必ずあるはずです。
それは、そういったエネルギーを常に欲して、
我々に「罰」や「処刑」をおそらく勧めているであろう「レプ達」に対する我々にもいえることではないでしょうか・・・?
なんでもかんでもレプ(悪霊?)のせいにするということは、
ある意味「底なし沼」に自分が落ちたことを、
決して移動したり 襲いかかってきたりしない「底なし沼そのもの」のせいにすることに似てるような気がします。
最終的にどんなにだまされようと
「本人の」価値観で判断しておちいったのなら、その責任は「自分にも」あるはずです・・・。
必ずまた
他の誰かの価値観が 他の誰かを殺す・・・。
ほんとうに、それでいいのでしょうか・・・?
無論、だからといって 法律や規則が無意味だとも思いませんが、
でも 我々は、例え ノーベル賞をもらう人ももらえない人も、
金メダルをとれる人もとれない人も、
もっと 根本的に「許しあえる共存の方法」を、
「みんな」で考えあえるような気がするんですが・・・。
ただ 「解」が見つかるか見つからないかということの前に、
まず みんなは「このままでいいのか」ということがあります。
狭依彦さんがいっていたように、
「起こされている」ということを知ろうとも探ろうともしない、
もしくは知ろうと探ろうとしたくない人達は、
やっぱり「起きている」と、「なるようにしかならないと」・・・
みんなが「底なし沼」に それこそ「落ちたい」と思っているとするなら、
「“解”は見つけようともしない」ということになってしまうのでは・・・。
世界で大きな出来事が起こりそうですが、ほんとうに私の昼の生活の周りは「静か」です。
「みんな」で考えあうことができるか、できないか。さて、どうなるのでしょうか?
今夜みたいに満月が明るい夜は、ちょっと地震が来ないかと不安ですが、今は『霊界物語』に帰って、毎日少しずつあらすじでも作ろうと思っています。
すいません、素朴な質問で・・・。
王仁三郎のこれだったかな
「満月の日には、万物が皆膨張して居る。総てのものは水気を含んで水々しくなつてゐる。山でも一尺位は膨張してゐるのだが、万物が一切膨れるから、人間の眼には分らぬ。」
ちょっと違うような。
まあ思い込みでしょうか。
思い込みがくずれるといけないので「満月」「地震」では検索をしないことにします。
「思い込み」?
いや、あながちまとはずれな説明ではないような気がしますよ。
ありがとうございました。