教皇のサーカス:道化師二名と鼓笛隊

South Lawnでは9000名以上の群衆がBenedict XVI教皇のために「ハッピー・バースディ」を夢中で歌った。ブッシュ大統領は「教皇の29年ぶりのホワイトハウス訪問は、米国人にとって『正義と悪を明白に区別する』合図となった」と言っている。
元記事

(アイク)
活動中の信仰
アイスクリームでしょうか?
この車が非常に面白いですね……
【国際北米の最新記事】
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
「なにもしないこと」と「疑うこと」のちがいとでもいうべきでしょうか・・・。
つまり「信じる」の名の下に、自分以外の人を知る事を放棄してる人があまりにも多いなら、むしろ人を「疑う」とは、実はその人を知ろうとする行為になるのではないかと。
「疑う」というより、「色んな可能性を常に考えること」と言った方が、トゲがないかもしれません・・・。
「無関心」である以上、それは決して「信じる」行為ではない。
無関心こそ、疑うよりはるかに忌々しい行為である事に、多くの人達は気づいていないと。
とくに「いい事をしていると思い込んで、結果人を騙している人」であればなおのこと・・・。
人を騙している自覚が全くない、相手の苦しみを思いやる事さえできない、思考が停止した無関心状態こそ、
「何も疑わずに、ただ 信仰し続ける」
(考えず)
ことに、つながるのかもしれません・・・。
例え、”信じれば、天国にいける” という個人的な報酬と、
”信じなければ、あなただけ地獄にゆく” という、「強迫された恐怖心」に、縛られているとしても・・・。
「盲目さ」の話ですが、
日本人って、一番(?)宗教に縛られない人種といわれていますが、
その反面、決して 原因や人間1人1人を見ようとせず、その世間体や常識をある意味
宗教にしてしまっている人達も少なくないような気がするんです。
例えば、少し前に「千の風になって」という歌が大ヒットしましたが、
でも みんなあの歌の何を気に入ったのか
疑問に感じることもあります・・・。
つまり(いずれ生まれ変わるとしても)
肉体から離れたはずの人達に、なぜそれでも
肉体に閉じ込めるかのように、
「お供え物」という
あくまでも 「肉体を持っている者」が必要とする食べ物を捧げるのか・・・という疑問です。
食べ物のみならず、花といった植物達だって
もともと生き物ですよね?
そんな人間以外の「生きていた生き物」を
「お供え物」にするって、
結局「生贄」と同じになってしまうような・・・?
霊に対して、決して忘れずに
いつも「心で想ってる」だけでは、足りないというのでしょうか・・・?
「気持ち」では伝わらないとでもいうのでしょうか・・・?
つまり、亡くなった人達を
なるべくなら自由に霊でいさせたくないから、
それこそ、なるべくなら自由に「転生」させたくないから、
あくまでも 肉体の次元(?)に
閉じ込めておきたいがための「儀式」のようなものなのでしょうか・・・?
「お供え」については、あまり考えたことがないですが、
>そんな人間以外の「生きていた生き物」を「お供え物」にするって、結局「生贄」と同じになってしまうような
というところは、そんなものを食べて生きている人間というテーマまで行く可能性もあるのですが、必要最低限生きてゆくためのものは食べるとして、それ以外は「生き物」を殺さないほうがよいですよね。