アメリカは広島に原爆を落とし、7万人以上が即死、5万人以上が後遺症で亡くなった。長崎では、4万人以上が即死、後遺症で亡くなった人も多い。
原爆が落とされ、日本が降伏した後、9月には日本の記録映画撮影隊(日本映画社)が、長崎で破壊の模様をフィルムに収めている。また、9月15日には広島に向かった。しかし、撮影は、12月24日に、アメリカGHQによって中止させられ、フィルムも没収された。その後は、撮影禁止例が出て、写真なども没収された。
アメリカは軍事用に、ハリウッドの映画会社に広島と長崎を撮影させた。その会社は、日本人のカメラマンを雇い、撮影させたが、そのカメラマンはアメリカ側にフィルムを引き渡す前に、フィルムの複写を取って、屋根裏部屋に隠した。発覚したら、10年以上、刑務所に入らなければならない危険を冒したものだった。
その後、没収された日本側のフィルムと軍事用のフィルムは公開されることなく秘匿された。発表して、国民が反戦感情を持つのを恐れたためだ。原爆を落としたことを後悔して、フィルムの公開に前向きな人もあったが、AEC(原子力エネルギー委員会)と政府が公表を拒んだ。
このフィルムの撮影に関わったDaniel A. McGovernとHerbert Sussanは公開運動を行ったが、米政府は公開を拒否し続けた。
1967年にやっと、日本撮影のフィルムを日本に返還した。その後、1968年に、そのフィルムについての日本の新聞記事が、元となり、アメリカでもそのフィルムの一部が公開された。
アメリカ側が撮影したフィルムは、こっそり公開されていたが、誰もそれを知らなかった。その後、19700年代中盤に日本人の反核活動家のイワクマ・ツトム氏が、Sussanに米軍のフィルムの話を聞き、文書庫でそれを発見した。そのフィルムは日本の寄付が集まり、イワクラ・ツトム氏が買取して日本にやって来た。1982年にそのフィルムを編集した『予言』がアメリカで公開された。
Herbert Sussanは、原爆症で亡くなったが、死に際して、広島の爆心地に自分の灰をまいてくれと遺言したという。
元記事長文記事です。内容も充実しています。英語の読める方は読まれるといいと思います。